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 *参考資料(世界の故事)

























































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































・・・世界の行事とその由来・・・

国ごと、地域ごとに行われている各種の行事のうち、一般的に知られているものを取り上げています。

                                             
■リンカーン誕生日■

アメリカ合衆国第16代大統領リンカーンは、1809年2月12日、貧しい大工兼農夫の子として誕生しました。

この日には、現在の大統領が重要演説をするのがしきたりになっています。

この日を祭日と定め、学校、官庁を中心に、多彩な催しを行なう州は30ありますが、

南部諸州では、今でもこの「宿敵」の誕生日など祝おうとはしていません。

リンカーンの生まれ故郷であるケンタッキー州のハーディングは、日頃は静かな緑の山麓ですが、

この日ばかりは、当時の姿そのままの丸木小屋も、記念館も、大勢の人達で賑わうのだそうです。
■聖バレンタインデー■

セント・ヴァレンタイン(ヴァレンティヌス)は、3世紀ローマで殉教したキリスト教の聖者といわれていますが、

その生涯ははっきりとはしていません。彼の殉教したとされる2月14日を、ローマ・カトリック教会では、祭日としています。

(プロテスタント教会の祝祭日はクリスマスと復活祭だけです)

この日をドイツでは運命の日・不幸の日としているのに対し、イギリス、アメリカ、フランス等では、恋人を選ぶ日としています。

この日未婚の男女は、それぞれ自分の名前を書いたクジを作り、相手のヴァレンタイン(恋人)を引いて定めるという遊びをします。

地方によっては、若い人々は赤いハート等愛情を示す絵や、愛情あらわすメッセージ、

時には異性をからかうふざけた言葉等で飾ったカード(ヴァレンタインという)を相手に贈ります。

おそらく、元は聖ヴァレンタインの殉教を記念する日だったのでしょうが、たまたまこの日が鳥の雌と雄が春情をおぼえ、

相手を定める日と古くから一般に信じられていたことから、後世転じて恋人を選ぶ日となったようです。
■国際婦人デー■

アメリカでは、1869年女子人口の少ないワイオミング州に続いて、若干の州が婦人参政権を獲得しました。

婦選運動家達は、これに勢いを得て1909年2月2日、婦人参政権獲得と社会主義の高揚をスローガンとして、

婦人デーを催しました。翌1910年コペンハーゲンで開かれた第2インターナショナルの大会で、

社会主義者で婦人運動の闘士、クララ・ツェトキン女史の提唱で、3月9日を国際婦人デーとすることが決定し、

「同一労働一賃金」「7時間労働制」「完全な母性の福祉保護」「労働者児童の国費による教育と給食」等が

スローガンとして選ばれました。この運動は、たちまちドイツ、オーストラリア、デンマーク、スウェーデン等に広がり、

1913年には、帝政ロシアの首都ペトログラードで数千の労働者がデモを行い、三月革命の序曲となりました。

1919年組織された第三インターナショナル(コミンテルン)は、21年の国際会議で3月8日を

共産主義的な国際婦人デーと定めました。日本では、大正11年3月8日、社会主義的婦人が中心となって、

神田のキリスト教青年会で集会を開いたのが初めてです。

■聖パトリック祭■

(3月17日)

聖パトリックは、アイルランドの守護聖人です。5世紀初頭、ゲルマン民族の侵入によってローマ帝国が危機に貧したため、

ブリテン島に駐屯していたローマ軍が引揚げると、ブリテン人は北部からの侵入に悩まされました。

ケルト系ローマ人の身分の高い家に生まれたパトリックも、16歳の時、北部からやってきたピクト人の海賊に連れ去られ、

アイルランドで奴隷に売りとばされました。6年間、奴隷としての苦しい生活を続けた末、ようやくこの地を脱出した

パトリックは、ローマに行って学び、やがて聖職者となって故郷に帰りましたが、再びアイルランドに赴き、

30年間にわたって布教の旅を続け、各地に教会を建てました。聖パトリック祭は、彼が493年に、異教徒の

迫害にあって昇天した日に当たっています。この日祭る習わしは、アイルランド系移民の多いアメリカにも伝わり、

カトリック教会内で厳粛な宗教的儀式を行なうとともに、現在ではお茶の会や晩餐会等も盛大に挙行されています。

この日の飾りとして特に目立つのが、緑色のクローバーですが、これは昔聖パトリックがアイルランド人達に、

「三位一体」の教義を説いた際に、「神」「キリスト」「聖霊」の3つを、

クローバーの3枚の葉に例えて説明した故事にちなむもので、クローバーはアイルランドの国花でもあります。
■イースター■

(キリスト復活祭)

キリストは亡くなって葬られてから、3日目に蘇生したと言われていますが、その主の復活を祝うキリスト教の祝日で、

クリスマスに対する春の最大の祭事です。「3月21日以後の満月の次の日曜日」と、325年のニケーア宗教会議において定められ、

日は毎年不同ですが、大体4月上旬から中旬にかけての日曜日です。キリスト教徒は復活祭前の40日間の四旬節を

精進と贖罪に過ごし、この日には会う人ごとに「主は復活し給えり」と挨拶をかわします。この祭りの起源は非常に古く、

同時にこれは、一陽来復・・・春の訪れの喜びをこめた祝日で、チュートン民族がキリスト教に改宗する前から

行なっていた春祭りの名残りを含むものといえます。復活祭には、赤・黄・青など、5色の卵(イースター・エッグ)や、

中に玩具を入れた模造卵を贈りあいます。また砂糖で、十字架の印をつけた菓子パンや、クリスマスカードのような

美しいイースター・カードが売り出されます。このカードには、卵の殻を破って出たひよこや美しい草花等の絵が描かれています。

欧米の婦人にとってイースターは、冬から夏への衣替えの日であり、フランスではこの復活祭で学校の2学期が終わり、

2週間の休暇に入ります。ヨーロッパでは、イースターはキリストの復活と一陽来復の喜びが重なり、

厳粛な四旬節からの解放を含めて、人々の心をウキウキさせる日なのです。

■エイプリルフール■

4月馬鹿、あるいは 万愚節 All Fools' Dayともいいます。 

西洋では、4月1日には様々な軽いいたずらをしたり、まことしやかな嘘をつき、

人に無駄足を踏ませて興ずるという奇習がかなり古くからあり、

今日では、この風習は世界に広く行なわれています。かつがれた者が4月馬鹿と呼ばれる事は周知の通りですが、

フランスでは、「4月の魚(鯖のこと)」と言います。この魚が4月によく釣られる馬鹿魚というところからきているそうです。

ヨーロッパでは昔は、現行暦の3月25日を新年としており、それから4月1日までの春分の祭りが行なわれ、

その最後の日には、親しいもの同士の間で、贈り物を交換するという風習がありました。

ところがフランスでは、シャルル九世治下の1564年、新しい暦を採用して新年を1月1日としたが、

これが国民の末端まで届かず、昔ながら4月1日には贈りものが交換されました。

なかには、新年の変わったことを喜ばぬ者は、4月1日に昔の正月をしのんで、デタラメな贈り物をしたり、

宴会を行なってふざけたのが事の起こりといわれ、これが各国へ拡がったといわれています。

イギリスでは古くから、4月1日を祭る風習が伝来して、万愚説になりました。

この4月馬鹿は、東洋から起こったという説もあります。すなわち、インドでは春分に仏教の説法が行なわれ、

それが3月30日に終わるが、この日が過ぎると、せっかく信心深くなった者も、一夜明ければ元の木阿弥に戻ってしまうので、

3月31日を揶揄説と読んで、人を無用な使いに走らせて面白がったのがおこりといいます。

■シェークスピアズ・デー■

(4月23日)

シェークスピアは1564年4月23日に誕生し、1616年の同月日に亡くなったといわれていますが、

毎年この記念日には彼の生まれ故郷として世界的に有名な、ストラトフォード・オン・エイボンには、

各国の代表者が集まって、国旗を掲げ同市の市長は近傍の市長達と一緒に行列をつくって

聖トリニティー教会にあるシェークスピアの墓に詣で、花輪をささげました。

この日に限らず、エイボン河畔のシェークスピア劇場では、彼の作品が常時上演され、ファンや観光客を喜ばせています。
■児童節■

子供達を祝福し、かれらが正しく健康で、幸福に育つように念願するという趣旨の国際的行事として、

キリスト教では、6月9日をこどもの日とし、ソ連では6月1日を国際子供デーとしています。

日本では独自に5月5日をこどもの日としていますが、中華人民共和国では6月1日を、

台湾では4月4日を児童節としています。
■世界保護デー■

世界の全ての人々の、精神的肉体的健康の向上をはかることを目的として、1946年に発表された、

「世界保健憲章」に基づき、1948年4月7日世界保健機構(WHO)が、「健康は富である」との旗印を掲げて誕生しました。

これを記念して行なわれるのが、4月7日の「世界保健デー」です。国際連合専門機関の一つである世界保健機構は、

マラリア・結核・性病・各種伝染病・母子衛生・栄養・環境衛生等についての知識の普及、情報の収集、国際的調査、

技術者の養成を行なうとともに、各国の薬品法の統一、人口問題の調査、国際衛生条約等の勧告を行ないます。

日本の加盟は、1951年です。世界保健機構は、毎年一つの標語を選び、これをポスターやパンフレットを通じて

広く宣伝し、世界中の人々に健康を大切にするように呼びかけています。

今から約20年程前の秋、エジプトでコレラが流行し、3万人余りが罹病し、多数の死者を出したことがありました。

エジプト政府は、必死にコレラ退治につとめましたが、思うにまかせずこの世界保健機構に助力を求めたところ、

約20ヶ国のワクチン製造所から、合計32トンのワクチンがエジプトに飛行機輸送され、やっとしずまりました。

これは世界保健機構の輝かしい活動の一端として忘れる事のできない事柄です。
■灌仏会■

(かんぶつえ)4月8日

この日、お釈迦様の誕生日には、その立像に香水をそそぎかける儀式が行なわれますが、

これは、仏典にお釈迦様の誕生の時香水で洗浴したと記されているのに基づくものです。

梁の「高僧伝」には、それぞれの色をした香水で五香水(青・赤・白・黄・黒)を作って、像にそそぐとされています。

仏生会、降誕会、竜華節、浴仏節などとも言われ、日本で花祭りと呼んでいるのがそれにあたります。

この日はまた、仏教の殺生戒に基づき、魚や鳥を買って放す放生会も行なわれます。
■カーニヴァル■

(謝肉祭)

ローマ・カトリック教で行なう四旬節(レント)に入る前の3日ないし1週間にわたって催される祝祭・・・

これから転じて、これに類似する底抜け騒ぎの祝祭のことをいいます。

カーニヴァルの名は、ラテン語のカルネ・ヴァーレ(carne vale 肉に別れを告げる)あるいは、

カルネム・レヴァーレ(carnem levare 肉を減らす)から起こったといわれています。

四旬節というのは、復活祭までの40日をいい、昔荒野で苦行したキリストをしのんで、

肉食を断ったり、懺悔したりする精進と贖罪の厳粛な期間であり、カトリック国では結婚さえも控えるため、

その前の2月に式が集中すると言われるほどです。この精進に入る前にしばし肉と別れるのを惜しんで、

底抜け騒ぎを楽しもうというものです。この祝祭の起源は、ローマ時代の冬至に農業神を祀るサターネリア祭であるといわれています。

初期キリスト教の時代、教会は新しく信者になったローマ人を懐柔するため、かれらが持ち込んだこの異教の祭事を容認し、

これをキリスト教の祝祭に変えたものだとされます。だから歴代のローマ教皇の中には、この異教的な

底抜け騒ぎを嫌った者も少なくないといいます。この行事には、仮装または仮面行列や、張り子の偶像(カーヴァルの王)が

つきもので、道化師が奇声を発して、見物人を笑わせます。2階3階の窓からは、紅白の紙つぶてが乱れ飛びます。

このような催しが連日続き、最後の晩には万灯の催しが行なわれます。

手に提灯をふりかざす人々が互いに人の灯を消しあい、大騒ぎするうちに12時の鐘がなると、

うって変わって清らかな四旬節に入るのです。カーニヴァルの本場はカトリック教徒の多い南ヨーロッパで、

イタリア、ことにローマ、フィレンツェ、ナポリ、フランスのニース、スイスのバーゼル等で、

ニースのそれは花合戦として国際的にも有名です。プロテスタント諸国では一般に行なわれていません。
■レーニン・デー■

ウラディミール・イリイッチ・ウリアノフ・レーニンは、1870年4月22日(ロシアの旧暦によれば10日)、

シンビルスク(現在のウリヤノフスク)に生まれ、1924年1月21日、モスクワ郊外のゴルキ村に没しました。

この「革命の父」レーニンの偉業をたたえるとともに、革命の精神を永遠に伝えるために設けられたのが、

このレーニン・デーです。従来その逝去の日である、1月21日を祭日としていましたが、1955年度からは、

誕生日の4月22日を祝うことになりました。レーニンは、若い時から革命運動に参加し、マルクス主義の研究に没頭し、

ナロードニキ運動を徹底的に批判し、革命運動の進路を示しました。1897年以来数年間を流刑地で過ごしましたが、

後スイスに亡命し、「イスクラ」を発刊、共産党建設の基礎を作りました。1903年のロシア社会民主労働党第2会大会では、

ボルシェビキを指導し、3月革命後の1917年4月帰国し、11月革命でケレンスキー政権を倒して、

世界最初の社会主義政権を樹立しました。その後も首相として重要政策を指導しました。

レーニン・デーは、1991年12月のソ連邦消滅とともに姿を消しました。
■メーデー■

(5月1日)

今日では、この日はもっぱら労働祭の意味に用いられ、世界の労働者がその団結と結束を誇示するため、

示威行進を行なうが、もとイギリスあたりでは5月祭という春の祭りでした。この日男女ともに手をたずさえ、

音楽入りで郊外の森へ行き、花や若木を手折り、辻に立てられた黄と黒とでダンダンに塗った5月柱(メーポール)に飾ります。

柱にはこのほかリボンや、白地に赤十字を配したセント・ジョージ旗などを飾り、人々はこの満艦飾のメー・ポールのまわりで

一日中歌い、踊りぬきます。またこの日、村や町でもっとも美しい娘を5月の女王(メー・クイーン)に選び、

人々は女王の周りで踊ります。イギリスでは、この風習は農村になお残っていて、学校などでは、

柱からたらした5色の紐を手に持ち、柱を回る昔風のメー・ポール・ダンスを行ないます。

これは日本でも明治大正期に女学校に取り入れられました。この日の踊りには、モリス・ダンスというのがありますが、

これはもとスペインから渡来したムーア人(イスラム教徒)の踊りで、一座には伝説上の英雄ロビン・フッドや道化役が現れます。

このメーデーに、労働者の示威行進が行なわれるようになったのは、1886年5月1日、アメリカ合衆国の各地で行なわれた

ものが最初で、これはその前年労働諸団体が「毎年この日を期して8時間労働制獲得のためゼネストを行なえ」と

決議したのに基づくものでありました。その結果、メーデー後各地で8時間労働制が獲得されました。

アメリカでの成功によって、第2インターナショナルは、メーデーを全世界の労働者の日と定め、

1890年、欧米都市で最初の国際的なメーデーが行なわれました。8時間労働、常備軍の廃止、

戦争に対する反対闘争などがスローガンに掲げられたため、各国の政府は軍隊を出動させて鎮圧をはかりました。

その後、対戦の危機が次第に迫ると、メーデーのスローガンは「国際戦争の排除」を強く打ち出し、

戦争直前には戦争に対する非協力を主張しました。大戦中メーデーは諸国で中止されていましたが、

戦後再開されて今日に至っています。日本では大正初年、初めて堺利彦など数十人の社会主義者達によって、

ささやかなメーデーが行なわれましたが、大衆的な規模で行なわれたのは、大正9年が最初です。

この年は当日が土曜日にあたった為、翌2日の日曜日に延期され、約1万人の労働者、思想団体が

上野公園下から万世橋まで、官憲の厳戒裡を行進しました。
■青年節■

(5月4日)

1911年の辛亥革命によって中華民国が成立しましたが、革命の果実は孫文の嘆きをよそに軍閥に奪われ、

真の民主政権は生まれませんでした。第一次大戦後の1919年、パリ講和会議で山東半島のドイツ利権を日本に譲渡し、

かつ、日本の対華二十一カ条要求を受諾した段祺瑞内閣に対し、また革命的な意見を持つ陳独秀、胡適らの諸教授への

北京政府の弾圧に対して、5月4日北京の大学生がデモに立ち上がり、官憲と衝突しました。

これを「五四運動」といい、この影響によって全国的に大規模な民族加盟運動が展開していきました。

革命後の新中国では、この「五四運動」発端の日を青年節として記念します。

中等学校以上の学生生徒はこの日、学校を休んで祝典に参加します。
■世界赤十字デー■

(5月8日)

赤十字の生みの親で、アンリ・デュナンの誕生日です。デュナンは1829年スイスのジュネーブに生まれ、

1859年イタリア統一戦争に際して、北イタリアのソルフェリーノの戦場で、傷病兵の悲惨な状態を目の当たりにし、

彼らの看護に力を尽くしました。この時の見聞記が、有名な「ソルフェリーノの想い出」(1862年)ですが、

その中でデュナンは、戦時の中立的救護組織の必要を力説しました。その影響はきわめて大きく、

列国は1863年ジュネーブで国際会議を開き、赤十字規約をつくり、翌1867年には国際赤十字が結成されました。

日本赤十字社は、1877年の西南の役に際して、佐野常民らがつくっていた博愛者の後身で、1886年赤十字条約に加盟、

翌年日本赤十字社と改名しました。デュナンはその功績によって、1901年第一回ノーベル平和賞を与えられました。

現在、赤十字条約に加盟している国は100に近く、国境・人種・宗教の差別を超え、

平時と戦時の別なく愛と平和の運動を進めています。世界赤十字デーは、1948年(昭和23年)、

彼の誕生日を期して、多彩な行事を行なったのpが最初です。
■ジャンヌ・ダルク祭■

百年戦争の末期、フランスの大半がイギリス軍に占領されていた1429年5月、「神のお告げを聞いた」という、

17歳の少女ジャンヌ・ダルクが、オルレアンの包囲を破って、フランス軍の士気を鼓舞した記念に、

毎年5月の第2日曜日がジャンヌ・ダルク祭として、国祭日に定められています。

この日が国祭日となったのは、第一次大戦後のことで、政府が国民の愛国心高揚をはかるのが狙いであったといわれています。

しかし国祭日とはいえ、特別の催しは無く、チュイリュリー公園の前に建てられたジャンヌ・ダルクの小さな金色像が、

政府からの花で飾られるだけです。
■母の日■

一般に5月の第2日曜日が母の日とされています。母を賛える行事として古くは小アジアで、

神々の偉大なる母シビーリに対する儀式が毎年3月15日に行なわれたといわれ、

またキリスト教の世界では、5月は聖母マリアに捧げられた月としています。

しかし現在の母の日は、アメリカのウェスト・ヴァージニア州のアンナ・ジャーヴィズ嬢という熱心なクリスチャンが

1908年母の追悼会に一箱のカーネーションを捧げたことから始まります。彼女はその後、

母性をたたえる母の日を主唱し、全財産を傾けて奔走すること6年余、1914年にやっと念願かなって

ウィルソン大統領に毎年5月の第2日曜日を母の日として公認させることに成功しました。

それ以来これは世界に広がり、この日母のある人は赤いカーネーションを、

母の亡くなった人は白いカーネーションを胸につけて母を賛えることになりました。

日本でも、1949年(昭和24年)5月15日に第1回の母の日が行なわれ、それ以来年々盛んになりました。
■国際善意デー■

ロシア皇帝ニコライ二世の提唱により、1899年5月18日、オランダのハーグで第一回万国平和会議が開かれ、

国際司法裁判や戦時国際法などが取り決められました。以来、5月18日を万国平和会議記念日としていましたが、

1922年、イギリスのウェールズの子供達が中心になり、毎年この日に全世界の少年少女が、

ラジオを通じて神前を深め合おうという運動をはじめ、その名も「国際善意デー」と改めました。

1931年以来、日本でもこの運動が行なわれるようになりました。
■エンパイア・デー■

(5月24日)

「全イギリス祭」ともいいます。イギリス女王ヴィクトリアが1819年に誕生した記念日です。

この日は、学校も会社も商店も休みとなり、イギリス全土にわたって盛大な祝賀が行なわれます。

夜になると、あちこちの町角で、子供達がかがり火をたいて、この良き日を祝うのが習わしとなっています。

1837年、18歳で即位して以来、1901年、82歳でこの世を去るまでの64年にわたる女王の治世には、

保守・自由の二大政党による議会政治が、最も典型的に運営され、穀物法の廃止、選挙法の改正など、

幾多の自由主義的諸改革が行なわれる一方、対外的にも、世界に覇を唱え、

中国、インド、アフリカに進出し、1877年インド帝国の成立とともに、女王はインド皇帝を兼ねるようになりました。
■メモリアル・デー■

デコレーション・デー(Decoration Day)ともいいます。

これは、元来アメリカの南北戦争で戦死した将兵の追悼記念日でしたが、

今日では第一次、第二次世界大戦の戦死者をも併せて追悼するようになりました。

南北戦争後、各州でめいめいに戦死者の慰霊祭を行なっていたのを、5月30日に統一したものですが、

州によっては、4月26日、5月10日、6月3日をそれぞれ「メモリアル・デー」(追悼の日)と定めているところもあります。

この日、戦没将兵の墓は美しい花で飾られ、敬虔な祈りが捧げられ、またパレードなども繰り広げられます。
■ダービー・デー■

(6月の第1水曜日)

女王以下、多くのイギリス人が血を沸かして観戦するのが、ロンドン郊外エプソムタウンズで開催される四歳馬の競馬レースです。

このレースをダービーというのは、、最初の主催者、ダービー伯スタンレーの名にちなむもので、

1780年以来の伝統を誇っています。この日イギリスでは、官庁も会社も休業となり、2万ポンドの賞金を目指す人々が押し寄せ、

観客数は約25万人にもおよぶといわれています。観光客などの第三者には、

肝心の競馬よりもこの人出の方が見ものだそうです。このダービーの名を冠する競馬は、

日本ダービーなどイギリス以外にもあり、アメリカのケンタッキー・ダービーなどは特に有名です。
■フラッグ・デー■

星条旗制定の記念日です。

北アメリカ東部に、イギリス人が建設した十三植民地は、母国イギリスの重商主義的支配に抗して立ち上がり、

「独立戦争」の結果、十三の独立した邦(ステート)となりました。これらの邦が合併して、「アメリカ合衆国」となりますが、

国旗が制定されたのは、1777年6月14日です。この日議会では、「国の父」ワシントンなどの家紋などを参考にして、

いわゆる「星条旗」(スターズ・アンド・ストライプス)をつくりました。

独立当時の州の数を象徴する「ストライプ」(条)は、いつまでも13本のままで変わりませんが、

「スター」(星)の数は、州の数の増加につれて加えられ、現在では50個となっています。
■オリンピック・デー■


紀元前776年(884年説もある)、ギリシャの主神ゼウスをまつる祭典の行事として、第1回オリンピック競技大会が開かれました。

それ以来、4年に1度づつ開催され、千年以上も続きましたが、ローマ帝国がキリスト教を国教と定めた4世紀末に禁止されました。

19世紀に入り、E・クルティウスの古代オリンピア発掘に刺激されたフランスの教育家クーベルタンが、

国際的な体育競技の祭典として、これを復活する事を提唱したところ、各方面の賛同を得て、

1894年6月23日、第1回国際オリンピック委員会(IOC)が、パリのソルボンヌ大学で開かれました。

IOC加盟国ではこの日を記念して、オリンピック・デーとし、

オリンピックの趣旨を徹底するための行事を行なっています。
■聖ヨハネ祭■

(カトリックの祝日)

ヨハネという名の聖者は多いが、これはキリストの生誕6ヶ月前に生まれ、ヨルダン川でキリストに洗礼を授けた、

「バブテスマのヨハネ」(St. John the Baptist)のことです。かれは聖母マリアとともに、神の祝福によって生まれたものとされ、

その誕生日の6月24日を祝日としています。イギリス、オーストラリア、デンマークなどのように

この日を夏至祭りとして祝っている国もあります。この日の前夜をミッドサマー・イヴといい、

シェークスピアの「真夏の夜の夢」は、この祭りにちなんでかかれたものです。
■父の日■

母の日に対し父親をたたえる日で、アメリカにはじまりました。1910年、ワシントン州スポケインのジョン・ブルース夫人が、

男手一つで自分たちを育ててくれた父親に感謝する行事をしたのがはじまりであるといいます。

最初、各州でまちまちに行なわれていましたが、6月の第3日曜日を父の日とする習慣ができたのは、

1934年以降のことであり、ことに1936年ニューヨーク市に「全米父の日委員会」ができてから、

この行事は全米で盛んになりました。母の日に比べれば、アメリカでも比較的歴史の短い行事で、

日本ではまだ一般化していませんが、それでも兵庫県のように、

すでに昭和28年から「父の日」の行事を全県的な運動として取り上げて、

大きな成果をあげているところもあります。日本では、昭和28年の「母の日」に明石市内のさる幼稚園で、

園長さんが園児に母の日の説明をして赤白のカーネーションを渡したところ、園児たちが口をそろえて、

「なぜお父さんにはありがとうを言わなくていいの?」と、可愛い質問をしました。

これが連合婦人会に伝えられ、同会で「父の日」運動を始めたものが評判となり、次第に全国に広がったのであります。
■インディペンデンス・デー■

(7月4日)

アメリカ合衆国独立記念日。1775年4月、レキシントン・コンコードの衝突をきっかけに、イギリス本国の圧制に抗し、

立ち上がったアメリカの13の植民地は、はじめは必ずしも全てが独立の決意はありませんでしたが、

翌76年7月4日、かねてジェファーソン、ジョン・アダムズ、フランクリンなどによって起草されていた独立宣言

(Declaration of  Independence)を、各植民地の代表者によって構成された大陸会議が可決し、世界に公表したのです。

これをいち早く知ったフィラデルフィア市民は、布告の前で万雷歓呼をあげて熱狂し、伝令がただちに国の隅々まで走らされました。

独立宣言は、人は「すべて平等につくられ」「生命・自由および幸福の追求」をはじめとする、「天賦の人権を与えられている」とし、

「植民地は本然の権利にもとづいて、自由にして独立の国家であること」を宣言したもので、

これがアメリカ人を固く終結させ、ついに1783年合衆国の事実上の独立をもたらすことになったのです。

この独立記念日は、合衆国の年中行事のうちで最も重要なもので、国をあげて熱狂します。首都では陸海空軍のパレードが

行なわれ、ラジオ・テレビは独立宣言を厳粛に放送し、夜は全国各地で花火大会が催されます。

しかしアメリカでは、1869年連邦議会で憲法百年記念祭を制定した以外に、国家で制定した祝祭日はなく、

この独立際も国家の祝日ではありません。その代わりに、各州でそれぞれの祝日がおかれています。
■パリ祭■

共和祭。フランス革命記念日であり、フランス共和国の国祭日です。フランスの国祭日は、帝政時代には8月15日でしたが、

第三共和制のグレヴィ大統領の時、パリ市民がバスチーユ牢獄を襲撃して、革命の烽火をあげた1789年7月14にちをもって、

民衆自身の手で自由を闘いとった勝利の日として、共和国の国祭日と定めました。ラ・マルセイエーズも、

この時国家となりました(1880年7月7日の法律によって)。

フランス人はお祭りが好きで、国民の大部分がカトリック教徒であるので

365日の毎日が聖人の祭日になっていますが、この7月14日の共和祭には、

パリ市民は勿論、全国民が最大の熱狂ぶりを示します。

この日パリでは、朝、観兵式が行なわれますが、広場のプラタナスやマロニエの枝には三色旗をつり、

町々には楽師の屋台ができ、そのジンタにつれて人々は深更まで踊り騒ぎます。道路は通行止めをして、

雨が降っても傘をさしてまで踊り歌います。この日は夏のさかり、有閑階級は皆避暑地に出かけているので、

共和祭は全く民衆だけの祭りといえます。このパリ祭という名前は、日本製の呼び名で、

本場のフランスには存在しません。これはフランスの映画監督

ルネ・クレールの1933年の名作「le 14 juillet (ル・キャトーズ・ジュイエ)

が日本で「パリ祭」の名で上映され、その主題歌とともに一世を風靡して以来のことです。

この作品は、共和国の前夜から翌日にかけて、パリの裏街モンマルトルを舞台に、華やかな祝祭のかげで繰り広げられた

貧しい花売娘(アナ・ベラ)とタクシー運転手(ジョルジュ・リゴー)の、出会いと別れを描いたものでした。
■バイロイト音楽祭■

管弦楽や合唱などを用いて、演奏会を連続的に催す行事を音楽祭といい、

現在ドイツ、オーストラリア、イギリスなどで盛んに行なわれますが

毎年7月末から約1ヶ月にわたって開かれるこの音楽祭は、なかでもヨーロッパ最高のものとされています。

これはもとリヒャルト・ワーグナーが自己の理想を実現するために、ドイツ西南部の都市バイロイトに建てた祝祭劇場で、

1876年8月13日、自作の「ニーベルンゲンの指輪」四部作を上演したのに始まり、今もワーグナーの劇場が、

彼の孫達の新演出によって上演されています。この音楽祭のために、各国からバイロイトに集まる音楽ファンも少なくありません。
■聖母昇天祭■

キリストの母である聖母マリアの死を記念する祭りは、アンティオキアでは4世紀ごろ、

パレスティナでは5世紀頃から行なわれ、西方のカトリック世界では、7世紀頃から8月15日に行なわれるようになりました。

マリアには原罪がなく従って、原罪の帰結としての死の腐敗をまぬがれたその肉体は、霊魂とともに天国に上げられたという信仰を

「聖母被昇天」といい、これが正式にカトリック教会の教義として、ローマ教皇によって宣言されたのは1950年のことです。

この聖母被昇天を祝う祭りが聖母昇天祭で、カトリック教徒の聖母崇拝を最もよく示すものといえるでしょう。
■ルルドの大祭■

フランスでは、少数のプロテスタントとユダヤ教信者を除けば、国民の90%以上がカトリック信者であり、

年中行事でもカトリック関係の祝祭日が多いのです。

毎年8月18日から1週間にわたって行なわれる「ルルドの大祭」もその一つです。

ルルド(Lourdes)は、フランス南西部、オート・ピレネー県の町で、ピレネー山脈の北麓、

ガーブ・ド・ポー川上流の急流部の沿岸に位置しています。

この町は、16世紀の宗教戦争にさいしてはプロテスタント軍に抵抗したという歴史をもっていますが、

カトリックの聖地とされるに至ったいきさつは・・・・・・・、

1858年2月のこと、ベルナデット・スビルーという、14歳になる信心深いルルドの粉屋の娘が

近くの山に薪をとりに行く途中、とある洞窟の前に出ました。何気なくその中を覗いてみると、

そこに突然聖母マリアの姿があらわれました。呆然と立ちつくすこの少女は、一条の泉を指すマリアから、

この水を飲み、それで顔を洗うことを命ぜられ、数々のお告げを聞いたと言います。

この奇蹟の物語は、「聖処女」という映画にもなりました。その後、この泉の水を飲むと不治の病も治るという噂がひろまり、

ルルドの名は世界中に知れわたり、やがてフランスでも有数の聖地となりました・・・・・・・、というのがいきさつです。

今も泉の湧き出る洞くつの前には、神の奇蹟を物語るかのように、キリストの受難像が立ち、

うしろの高みには壮麗なロザリオ聖堂があります。ルルドは人口2万人足らずの小さな町ですが、

今ではホテルが立ち並び、4万人以上を収容する療養所もでき、

毎年200万人にも及ぶ巡礼者や観光客を集めています。

ルルドの大祭には、フランス国内は勿論、世界の各地から集まった熱心なカトリック信者達が、

奇蹟の泉の洞くつの前から賛美歌を歌いながら、聖体を捧げて町を行進するのです。
■エディンバラ国際フェスティバル■

毎年8月下旬から3週間にわたり、スコットランドの中心都市エディンバラで開催される国際的な芸術祭は、

バイロイト音楽祭や、ザルツブルグ音楽祭などとならんで、世界の芸術祭の中でも、最も有名な催しものの一つです。

このフェスティバルは多彩をきわめ、世界各地から一流の演奏家、オーケストラ、オペラ、バレー、さらには

劇団までを集め、毎年華麗なプログラムを組むほか、期間中は一流の美術品の展覧会を開催するなどして

人気を呼んでいます。会場のうち主なものは、アッシャー・ホール(オーケストラ演奏)、キングズ・シアター(オペラ上演)、

フリー・メーソンズ・ホール(室内楽など)、レイス・タウン・ホール(演劇上演)などですが、

この他市内のあちこちでプロ、アマを問わず、世界中の芸術家がその腕前を披露します。

また期間中最大の呼びものの一つになっているものに、エディンバラ城エスプラネードで繰り広げられる

スコットランド軍楽隊のパレードがあります。これは、民族衣装のキルトをはいた兵士がバグパイプ(風笛)を

演奏しながら城壁の下を行進する一大ページェントです。
■アールスメール■

オランダはアムステルダムの近くに、花栽培で世界的に有名な、アールスメールという町がありますが、

毎年9月の第1土曜日、この町で大々的に行なわれるフラワー・パレードを「アールスメール」と呼んでいます。

この日、市民達はトラクターその他様々な車を色とりどりの生花やドライフラワーで飾った「花車」をつらね、

大規模なパレードを繰り広げます。
■孔子誕生日■

教師節ともいいます。孔子を尊崇すべきか否かについては、近代中国では康有為と陳独秀以来対立する主張がみられますが、

少なくとも現在の台湾では、きわめて高い評価が下されていることは、各地の立派な孔子廟を見てもわかります。

ことに台北に新築された孔子廟は豪華を誇り、台湾有数の建造物といわれます。

本殿には、孔子と孟子が祭ってあります。9月28日の孔子誕生日には、台北、新竹、彰化、台南号の諸市の孔子廟では、

官民共同主催の元に、早朝から厳かな記念儀式が行なわれます。
■国慶節■

中華人民共和国には、旧正月にあたる春節、メーデー、国慶節の三代祝日がありますが、

なかでも全国的に盛大に行なわれるのが、この国慶節です。蒋介石を中心とする国民党と、

毛沢東を中心とする共産党は、第二次大戦中は緊密に連携して外敵に当たりましたが、

戦後激しく対立し、激烈な内戦の後、共産党は中国本土を席巻し、1949年10月1日、

北京天安門で中華人民共和国の成立が宣言されました。これを記念したのが国慶節で、

毎年モスクワの赤の広場の何倍もある天安門広場で式典が行なわれています。
■ガンジー誕生日■

モハンダス・カラムチャンッド・ガンディーは、かの有名な非暴力の無抵抗主義により、数度の投獄にもひるまずに

インド独立運動に活躍しました。1922年12月、文豪タゴールが彼を訪問した際、マハトマ(=大きな魂=大聖)と

名づける詩を献じて以来、彼はマハトマ・ガンジーと称されるようになりました。

独立の翌年(1984年)、彼は一狂信者に暗殺されましたが、葬儀には数十万の市民がその徳をしのび、

焼かれた棺の灰に手をふれたといいます。この「インド独立の父」の墓は、ただ方形の石を置いただけという質素なものですが、

毎年誕生日の10月2日には、このまわりで厳粛な追悼祭が行なわれています。
■万国郵便連合記念日■

1874年10月9日、各国間の郵便制度に関する最初の国際会議がスイスのベルンで開かれ、

22カ国の代表が出席し、特にドイツの郵政大臣エルンスト・ハインリヒ・フォン・シュテファンの尽力で

「万国郵便連合条約」が締結されました。以後この条約に参加する国々の間では、

自由に「外国郵便」を出し合うことができるようになりました。

日本が万国郵便連合に加わったのは、1877年(明治10年)2月19日です。
■双十節■

1911年、財政危機に瀕した清朝政府が、諸外国から資金を仰ぐために、鉄道の国有化を図ろうとすると、

四川省に暴動が起こり、ついで10月10日には武昌の革命軍が蜂起し、これをきっかけとして

各省が清朝からの独立を宣言しました。翌年1月孫文を臨時大統領とする中華民国が成立し、

これを辛亥革命といいますが、その発端となった10月10日を同国では国慶日と定めました。

月日とともに十が重なるところから双十節と呼び、現在本土、台湾ともに毎年祝典を挙行します。
■コロンブス・デー■

1492年コロンブスがアメリカを発見したとされる日。

イタリアのジェノヴァの毛織物業者の息子、クリストファー・コロンブスは、天文学者トスカネリらの影響を受けて、

大西洋を西航すれば、短時日でインドに到達することができると考えました。やっとスペインのイサベル女王の

援助を得る事に成功したコロンブスは、1492年8月乗組員150名を乗せたサンタ・マリア号など3隻の船をひきいて

パロス港を出港、途中カナリア諸島を経て、ついに10月12日現在バハマ諸島中のグァナハニを発見して、

サン・サルバドル(聖なる救世主の意)と命名し、さらにキューバ、ハイチなども発見し、

翌93年3月に帰国しました。その後、1502年までに3回の航海を重ね、この間、

新大陸西部、パナマ地峡を探検しましたが、彼は死ぬまでそれがアジアのインドの一部であると信じていました。

ところで1965年のコロンブス・デーの当日、ある古地図がエール大学によって公開され、時ならぬ波紋を投じました。

この古地図によって、コロンブスのアメリカ発見に先立つこと500年の昔(1002年)、ヴァイキングの酋長レイフ・エリクソンが

アメリカ大陸を発見したというスカンジナビアの伝説が、証拠立てられたというのです。この地図は、あるアメリカ人が

ヨーロッパで入手し、エール大学に寄贈しました。同大学では、8年の歳月を費やして研究を重ね、

66年のコロンブス・デーの前々日、10月10日「この地図は11世紀にノルウェー人のレイフ・エリクソンが発見した

新大陸に関する地図のうち、コロンブス以前に作製されたものとして現在知られる唯一のものであり、

地図に関する世紀の発見である」と発表しました。考証の結果、1440年の作製と断定されたこの羊皮紙の地図の左上には

グリーンランドより一回り大きな島が描かれていますが、これこそアメリカ大陸であり、地図の左肩には

「・・・・・神の御心により、グリーンランドから、西の大洋の最も遠くの部分に向かって南に航海し、

漂流の間を進んだのち、新しい大地を発見した。つる草の茂る、この肥沃な島を、彼らはビンランド(つる草の島)と名づけた。」

と、記してあります。エール大学は、この地図のコピーをニューヨークに本部を置く、イタリア・アメリカ歴史協会に送ったところ、

会長のジョン・ラ・コルテ氏は、イタリア人コロンブスの名誉を不当に傷つけるものとして、カンカンに怒ってその地図を破り捨てました。
■国連デー■

第二次大戦後の国際機構の構想について、連合国側は1944年、ワシントン郊外のダンバートン・オークス会議で

原案を作製したが、これを基礎にして出来上がったものが国際連合憲章です。

この憲章が発効し、国連が正式に成立したのは、1945年10月24日でした。

以来この日を「国連デー」とし、同日を中心とする国連週間には、世界平和を念願する各種の行事が行なわれますが、

日本でも1958年(昭和33年)、閣議で「国連の日」が正式に決定してから、

日本国連協会を中心に、国連の意義を啓発する趣旨の催しが行なわれています。
■宗教改革記念日■

現在キリスト教会は、ローマカトリック教会、ギリシャ正教会、プロテスタント教会の3つに大別されますが、

プロテスタント教会の生みの親ともいうべき人物は、ドイツのマルティン・ルターです。

彼は1517年10月31日、ヴィッテンベルク教会の門扉に、有名な「九十五か条のテーゼ」を発表し、

これが伝統的なローマ・カトリック教会に対する反体制的教会(プロテスタント教会)を生む機縁となりました。

カトリック教徒からみれば、ルターは憎むべき異端であり、悪魔の如き人間なのですが、プロテスタント(新教徒)にとっては、

輝ける暁の明星であり、この日に一番近い日曜日に、世界各地のプロテスタント教会では、

おごそかな礼拝を行なうのを常としています。
■ハロウィン■

万聖節の前夜祭・・・11月1日。

このスコットランドの祭りは、ケルト人の信仰に起源を発します。

昔、ケルト人の一年は、冬から始まり11月1日が新年の元旦であったので、10月31日は、大つごもりに当たっていたのです。

もともと収穫の祭りであったこの夜は、いつか幽霊や魔女の横行する不思議な夜だと考えられるようになりました。

現在では勿論、幽霊や魔女の存在など、真面目に信じる者はいなくなり、単に面白おかしく騒ぐだけの祭りとなってしまいました。

この夜子供達は、南瓜やカブなどの芯をくりぬいて作った提灯を下げながら、

隊を組んで街を練り歩いたり、色紙やボール紙などで魔女の面を作ったり、

白いシーツをかぶってお化けの扮装をし、友達や近所の大人たちを怖がらせたりします。
■万聖節■

カトリックの祝日・・・11月1日

その起源は7世紀にさかのぼり、ローマ教皇ボニフェース4世が、ローマのパンテオン(万神殿)をキリスト教の

礼拝堂に改め、聖人たちを合祀したときに始まります。カトリックの聖人は、有名無名のものを合わせると、

かなりの数にのぼり、これを1年365日に割り当てても、なお余るほどなので、

全ての聖人をあがめ、その霊をまつる日を定めることにしたのでしょう。

クリスマス、聖母昇天祭などとともに、カトリックの最も重要な大祝日の一つで、

信者はこの祝日のミサには、何はおいても出席しなければならないことになっています。

墓参りをする人の数が、この日は特に多くちょうど日本の彼岸を思わせます。
■ユネスコ憲章記念日■

国連教育科学文化機関(ユネスコ=(UNESCO United Nations Educational, Scientific and Cultural Organization)は、

1945年11月、ロンドン会議に44カ国が集まって設立が決まり、翌46年11月4日、ユネスコ憲章の

発効によって設立しました。ユネスコは人種、性別、言語、宗教の別なく、教育、科学、文化によって

世界中の国々の協力を促進し、これによって、平和と安全に寄与する事を目的とするもので、

その為に広範な活動を行なっています。日本も、1951年2月に加盟して以来、この目的に沿って

積極的な活動を続けてきました。11月4日には「21世紀の美の殿堂」と称されるパリの本部を中心に

加盟各国それぞれに記念式典を行なっています。

■ガイ・フォークス・デー■

火薬陰謀記念日・・・11月5日

スコットランドから招かれて、イギリスのスチュアート王朝を開いたジェイムズ1世は、熱心なカトリック教徒

メアリー・スチュアート女王の子であったから、従来、弾圧をうけてきたイギリスのカトリック教徒は、

大いに彼に期待しました。ところが、「王権神授説」を奉ずる新王は、カトリック教徒が、ローマ教皇にではなく、

自分に絶対の忠誠を誓わない限り、カトリック信仰を認めない旨を宣言しました。

そこで、期待を裏切られたカトリック教徒の一味は、1605年、王の暗殺を計画しました。

この計画は、上院議場の真下にある地下室の中に、三十余樽の火薬をこっそり仕掛け、

11月5日の開院式に、国王と皇太子が議会に臨んだ時を見計らって、火薬を爆発させ、

大臣、議員らを一緒に殺し、同時にカトリック教徒が一斉に蜂起するというものでした。

ところが、密告によってこの陰謀は発覚し、計画実施の前夜、その地下室をうろつきまわる、

一人の妖しげな男を捕らえました。この男は、首謀者のガイ・フォークスという、カトリック教徒でした。

彼およびその一味は、間もなく処刑され、以後、カトリック教徒に対する弾圧は一段と激しくなりました。

以来イギリスでは、この予定が計画された11月5日を「ガイ・フォークス・デー」として祝うようになりました。

毎年この日には、かがり火をたき、花火をあげ、ボロで作ったガイ・フォークスの人形を町中に引き回し、

夜になってこれを焼く習わしができました。もっとも最近では、人形を作ることは次第にすたれてきましたが、

かがり火や花火を鳴らす行事だけは残っています。また、議会の開院式に先立ち、

黒い帽子と真っ赤な制服を着用したヨーマン・オブ・ザ・ガードと呼ばれる兵士達が、

槍を手にして、議場の地下室を捜索することも、開院式当日の欠かせない行事として、いまだに行なわれています。

■革命記念日■

1917年11月7日(露暦では10月25日)、レーニンの指導下にケレンスキー政権が打倒され、

ボリシェヴイキによる社会主義政権が成立しました。これを十一月革命(露暦では十月革命)といい、

ソ連ではこれを記念して、毎年全土にわたり、盛大な行事を行なっています。前日の6日には、

各地に前夜集会がj開かれ、共産党や政府の指導者が長時間に及ぶ演説を行なって、革命以来の成果をたたえるのが常です。

当日の祝典には、40発もの礼砲を打ち上げ、赤の広場を中心に多彩なページェントをくりひろげます。

夜は晴れ着を身につけた人々が、ウォッカやワインで祝杯をあげ、山盛りのご馳走に舌鼓を打ちながら、楽しいひと時を過ごします。
■休戦記念日■

世界の総人口の8割を超える三十余国によって、4年3ヵ月にわたって戦われ、850万の戦死者、2900万の負傷者をだした

第一次世界大戦も、1918年のこの日、フランスのコンピエーヌの森に置かれた、汽車の車両の中での、

休戦条約の調印によって幕を閉じました(11月11日)。この報が伝わると勝敗を問わず、全世界は「平和到来」に熱狂し、

爾来連合国側は、この日を休戦記念日として、平和をたたえる日としています。この休戦の報に沸いたのは諸国とも同様だったが

アメリカでの熱狂振りも異常でした。ニュースがワシントンに達した時、国務省は深夜3時という異例な時刻に、

睡眠中の新聞記者団を叩き起こして発表しました。4時半には、各都市でサイレンや鐘が市民の夢を破ったが、

市民達はなかなか信用しませんでした。というのは、この4日間、休戦のデマ報道でアメリカ中で狂喜して乱痴気騒ぎを演じ、

嘘だとわかってガッカリしたばかりだったのです。しかし今度こそ本当だとわかると、商店の扉には

「カイゼル葬儀のため本日休業」というようなハリ紙が出され、市民は肩を組んで街頭をねり歩き、娘達は兵士を見ると、

キスを与えました。ニューヨークでは、女子大学生800人が蛇踊り(スネーク・ダンス)をし、群集はカイゼルの人形を蹴り飛ばして、

歓声をあげたと言われています。イギリスでは、午前11時これが発表されると、国民は一時は呆然自失、暫くは歓呼の声も

忘れてしまうほどでした。この記念日には、アメリカでは大戦参加の在郷軍人(ヴエテラン)がパレードを行い、

各国でも無名戦士の幕に花を捧げます。
■感謝祭■

(サンクスギビング・デー)

合衆国には国家で制定した祝日はひとつしかなく、ただ各州に共通な祝祭日が10前後あり、そのひとつがこの感謝祭です。

秋が深くなって収穫が終わった11月の第4木曜日、全国民が神にその恩寵を感謝する日で、収穫祭とも呼ばれます。

17世紀の始め、清教徒(ピューリタン)達が、アメリカに上陸した最初の秋、野生の七面鳥を丸焼きにして、

最初の収穫を神に献げて祝った日を記念するためのものです。この日各地では、いろんな催し物のほか、

山車(だし)や仮装行列のパレードが行なわれ、家ではとうもろこしのパン、かぼちゃのパイ、乾果実で作ったケーキなど、

開拓時代の昔をしのぶ料理が出されます。この感謝祭をきっかけに社交界の行事が始まり、音楽会の季節に入ります。
■闘牛■

闘牛はスペインの国技です。シーズン中、全国に散在する300近くの闘牛場は、ほとんどいつも満員の盛況を呈するが、

なかでも5月15日のサン・イシドロ祭を中心に、マドリードで連続16日間開催される闘牛は天下一品の称があります。

金、銀、赤、紫などの華麗な金モールのついた中世風服装の闘牛士の一団のうち、主役は何といっても

剣と赤い布を持ったマタドールで、熱狂する観客を前に、荒れ狂う牛にとどめを刺します。

この間約20分、一日に6頭の牛が殺されます。闘牛はスペインのほかポルトガル、南北アメリカでも行なわれていますが、

スペインにくらべれば血なまぐささはずっと少ないようです。
■クリスマス■

(キリスト降誕祭・12月25日)

クリスマスはキリストのミサ(聖餐)の意で、XmasのXは、ギリシャ語のキリストXritosの頭文字です。

イエスがその日の未明に生まれたという昔からの言い伝えに基づいて、全世界のキリスト教徒が祝典をあげます。

クリスマスはキリスト教世界の年中行事の最大のものです。しかし、今日の研究によれば、イエスの誕生は紀元前4年で、

月も日も不明で、12月25日に」生まれたという証拠はなにもありません。最初の降誕祝日は、紀元200年ごろ、

5月20日に行なわれたと言われ、これが12月25日になったのは、300年頃からのことです。

12月下旬になったのは、古くから多くの民族に共通に行なわれていた冬至祭、ことに、ローマ人が行なっていた

年に一度の大騒ぎのサターネリア祭を、キリスト教の祝祭に置きかえたものと考えられています。

この祭りは北欧では宗教的なクリスマスになりましたが、南欧では前掲のようにカーニヴァルのお祭り騒ぎに変わったものだということです。

325年のニケーア宗教会議で、12月25日クリスマス・デーから、1月6日の御公現の祝日(東北の三博士の訪問によって

イエスが救世主であるとされた日)までの12日間がクリスマス季節と定められています。

教会での儀式は、クリスマス・イヴの深夜から翌朝にかけて会堂の灯火を消し、わずかにローソクの光の中で行なわれる

キャンドル・キャロルと、翌日のミサが主なもので、人々はあとは家庭内で意外なほど静かにこの良き日を送ります。

夜は過程は勿論、ホテルでもレストランでも、焼いた七面鳥や鵞鳥のクリスマスディナーがつきもので、

テーブル越しに向かいの席の人とクラッカーを引っ張り合って、爆音とともにどんな玩具が飛び出すかを楽しみます。

なおこの日、教会にヤドリ木を飾ったり、友人に贈り物をするのはローマ人の習慣であり、

またエゾ松やモミの木のクリスマスツリーにものを飾るのは、8世紀頃ボニフェースというイギリスの僧がゲルマン民族に

伝道した際、彼らが北欧神話のオーディンの神聖な木(カシワ)に人間をいけにえとして献げるのを知って、

モミの木に幼児キリストへの献げ物をつるして、犠牲の代わりにしたことから始まるといわれています。
■ハヌカ祭■

キリストの誕生を祝うクリスマスは、今までは全世界的な行事になっているとはいえ、「新約聖書」に記されたあのキリストを真のメシア

(救世主)とは認めず、いまもなおメシアの出現を待ち続けているユダヤ教徒にとっては、クリスマスなどは

何の意味もない、むしろいまわしい行事なのです。しかし、イスラエルをはじめ、世界各地のユダヤ教徒たちは、

ちょうどクリスマスと同じ時期に、8日間ハヌカ祭とよばれる催しを行ないます。ハヌカとは「奉納の日」という意味で、

この期間各家庭では8本用のロウソク立てを用意し、毎晩その家で最年少の子供が灯りをともすことになっています。

プレゼントを交換したり、パーティーを開いたりするところはクリスマスとよく似ていますが、

「メリー・クリスマス」の代わりに、「ハッピー・ハヌカ」といって、祝い合っています。
■結婚記念日■

夫婦が結婚後、特定の周年日に、結婚した日を記念するとともに、その健在を祝う日です。

国別や時代別で内容にもかなりの差があり、19世紀半ば頃のイギリスの文献によれば、5年目の木婚式、15年目の銅婚式、

25年目の銀婚式、50年目の金婚式、60年目のダイアモンド婚式の5つが記されているにすぎません。

(アメリカでは75年目がダイアモンド婚式)

これらのうち最もよく知られている銀婚式と金婚式についてですが、

まず銀婚式は、結婚後25年目の結婚記念日に行い、かつて結婚式に参列した客はなるべく招待するようにします。

夫妻は、花嫁、花婿と呼ばれ、結婚式に用いた想い出の品を、何かひとつは身につけるのがならわしになっています。

花婿から花嫁には宝石が、家族や友人からも花嫁に銀製品や花が贈られます。

宴会の装飾には、銀色と白色とが用いられ、食事がすむと、ウェディングケーキに花嫁がナイフをいれます。

金婚式は、銀婚式とほとんど変わりませんが、この日花婿は花嫁に純金製品または宝石を贈り、

家族や友人からは記念品や花などを贈ります。宴会の装飾には、金色と白色が用いられ、

花も白色と黄色のものを飾ります。このような西洋の風習は、早くも明治時代に日本に伝わり、

1894年(明治27年)明治天皇大婚25年祝典が行なわれて以来、これにならうものが次第に多くなりました。

なお結婚記念日は、近年貴金属商などの宣伝によって、回数がいちじるしく増加し、エンサイクロペディア・アメリカーナによれば、

以上の5つの他、1年目「紙」、2年目「綿」、3年目「革」、4年目「書籍」、6年目「鉄」、8年目「電気器具」、9年目「陶器」、

14年目「象牙」、25年目「磁器」、330年目「真珠」、35年目「ひすい」、40年目「ルビー」、55年目「エメラルド」など、

数え上げればきりがないほどです。
■安息日■

ユダヤ教徒が1週の第7日に与えた名称で土曜日に当たります(厳密には金曜日の日没から土曜日の日没までをさす)。

言語はヘブライ語のサバト(Sabath)ですが、これは一切の業務や労働を停止し、休息する事を意味し、

「旧約聖書」の「創世記」に、神が6日間で転地万物を創造し、第7日目に休んだとあるのに由来するものです。

安息日は、「割礼」とともにイスラエル人を異邦人から区別する最重要事とされていたことが、

「ネヘミア記」などに見えていますが、いつしか安息日の精神が忘れられ、形式化したため、

イエスはこれを批判し、本来の精神に立ち返るべきことを説きました。

キリスト教では、このイエスが復活したとされる日曜日を聖日(安息日)としています。

日本で1週7日制をとり、日曜日が休日と定められたのは、勿論西洋の風習を取り入れた結果で、

明治6年(1873年)3月20日の文部省によるものです。
■元旦■

もとわが国では、正月の満月の夜を一年の始まりとし、この日、年神(五穀を守る神)を迎えて、収穫を感謝するとともに、

新しい年の豊作を祈る諸行事を行なっていました。ところが、奈良時代頃、唐の歴制が取り入れられ、正月元旦を

年の初めとする風習が普及するようになりました。正月に門松を立て、三日間屠蘇をくみ交わし、餅を食べるようになったのは、

平安時代からで、これもまた唐にならったものです。歳の元(としのはじめ)、日の元、時の元を三元といいますが、

その三元の日の次の日である元旦に初詣をし、初日の出を拝むという風習は、都会ではだんだんすたれつつありますが、

一家祝膳につき、「明けましておめでとう」の挨拶を交わすのは、全国で当たり前のこととなっています。
■節分■

もとは立春、立夏、立秋、立冬など季節の改まる日の前日を節分といっていましたが、

しだいに立春の前日だけを指すようになりました。現在では、2月の3、4日にきますが、旧暦では正月の初めにくることが多く、

時には年末にくることもありました。「年のうちに春は来にけり」と、古今集にあるのはこのような場合です。

節分の代表的な行事は、神社仏閣や家庭で災厄退散のために炒り豆を「福は内、鬼は外」と撒く「鬼やらい」ですが、

これは室町時代に明の風俗を取り入れたものとされています。この豆撒きをする男を年男または、豆男といいますが、

近年寺社では芸能人その他の有名人のうち、その年の干支に当たった人から選ぶことが流行になっています。
■雛祭り■

雛節句、桃の節句、弥生の節句、上巳の節句ともいいます。

今日雛祭りといえば、普通には人形や調度で雛壇を美しく飾り、これに菱餅や桃の花、白酒を供えるといった、

女の子のための行事をいいますが、このような風習は古くからあった雛遊びと、中国から伝わった厄払いとが一つになり、

やがて人形作りの技術が進み、商品化されるにつれて、しだいに豪華になったものです。

昔は3月の巳の日に、紙人形に生年月日を記入し、陰陽師の祈祷によって、身の汚れをこれに移し、川に流しました。

今鳥取地方に見られる「流し雛」は、このような風習の名残をとどめたものなのでしょう。
■彼岸■

彼岸とは、仏典に見える梵語の音字・波羅密多(はらみつた)の漢訳で、詳しくは到彼岸といい、

悟った涅槃(ねはん)の世界をさします。

これに対して生死の苦しみに迷う現世が此岸(しがん)です。

古来日本では、春分と秋分の日(彼岸の中日)を中心に、

その前後三日間ずつ、計七日間仏事を行なうのを彼岸会(ひがんえ)といっています。

行事の内容も多分に仏教的ではありますが、わが国固有の各地の民間信仰の要素も色濃く含まれています。

近来、仏教信仰や民間信仰が失われるにつれて、この期間の墓参り、法要その他の習慣もしだいにすたれてはきましたが、

春、秋の彼岸の中日は、それぞれ春分の日、秋分の日として、国民の祝日となっています。
■端午の節句■

端五と同じ。

端は月の初め、五月は午月ですので、五日も午日と称します。端午はわが国では、男の子の祝い日ということになっていますが、

本来は祝いの意味ではなく、厄払いの日だったのです。「燕京歳時記」に、(五月は俗に悪月と称する)という文句があります。

こういう俗説は古くからあったようで、戦国時代斉の孟嘗君は五月五日の生まれであったために、子供の時に危うく棄てられそうに

なったという話が「史記」にみえています。また、六朝宋の猛将王鎮悪も五月五日の生まれで、悪気をおさえるという意味で、

鎮悪と名づけられたということが、「宋書」に載っています。菖蒲も鍾馗も厄払いのためのものです。
■粽■
(ちまき)

端午の節句につきものの粽は、戦国時代の楚の愛国詩人屈原の霊を慰めたのが始まりだとされています。

伝説によれば、屈原は五月五日、汨羅という河に身を投げて命を落としました。

楚の人々は彼の死を悲しんで、毎年命日に竹の筒に米を入れて河に投じました。

ところがある時、屈原が姿をあらわして、「米をた竜に取られてしまうから、今後は茅の葉で包み、色糸で結んでいただきたい。

この二つは竜が嫌うものだから」といいました。これが粽の始まりだといわれています。
■菖蒲■
(しょうぶ)

端午の節句につきものの菖蒲は、葉の形が剣に似ているところから、悪魔払いの意味で取り入れたものです。

「燕京歳時記」には、蒲剣の文字が見えるし、「清俗紀聞」「荊荊歳時記」には、

赤紙に書いて門の戸に貼る厄払いの文句が載っていますが、

それにはそれぞれ「菖蒲は剣の如く八節の妖邪を斬り」だとか、「手には菖蒲の剣をとり」とある。

日本では菖蒲は、軒に懸けるほか、菖蒲湯をたてますが、中国では菖蒲酒を飲む習慣がありました。

「菖蒲を似てあるいは鏤め、あるいは屑とし、似て酒に泛ぶ」とあります。菖蒲湯はありませんが、中国には

蘭の湯に入るという習慣が古くからあったようです。すでに「梵辞」の中に、「蘭湯に浴し」云々の句が見られますが、

これが最も古い記録だということです。ただし、これでは五月五日とは関係がありませんが、

「荊楚歳時記」には、「大載礼を按ずるに曰く、五月五日蘭を蓄えて沐浴をなす」とあるので、

少なくとも漢代には、端午に蘭の湯を浴びるという習慣があったということになります。
■鍾馗■
(しょうき)

「燕京歳時記」に、端午節に鍾馗の像を描いた黄色の紙を家の門に貼って、魔よけをするという記事が載っています。

わが国では、鍾馗さまといえばお節句の主宰者のような格ですが、中国では菖蒲や艾(よもぎ)と同じで、

単なる魔よけでしかありません。しかし、彼の生い立ちは夢から生まれたといいます。

楊貴妃との間に、千古不滅のロマンスを残した唐の玄宗皇帝がある時、

瘧(おこり)を患って悪夢を見ました。大勢の悪鬼が手や足を引っ張って連れて行こうとしました。

この時一人の偉丈夫があらわれて、鬼どもを平らげました。これが鍾馗だったのです。

夢の中で彼が玄宗に語ったところによれば、
鍾馗は、以前に科挙に応じて落第し、

それを痛憤して自殺した、ということでした。この物語では、鍾馗は端午と無関係ですが、

鬼を払ったというところから、後に厄払いの色の濃い端午節と結びついたのでしょう。
■七夕■

牽牛と織女の物語がいつごろ成立したかは明らかではありませんが、

非常に古くから存在した説話であることに間違いは無いようです。

「詩経」の中にすでにこの両星を歌った詩があります。ここではまだ恋物語として扱われているわけではありませんが、

六朝時代(五、六世紀)には、七夕の行事が成立しており、

「七月七日は牽牛と織女が会う夜である」と、「荊楚歳時記」にあり、またこの日が手仕事の上達を女性が願う日であることを

記しています。また、唐の玄宗行皇帝の盛時を伝える「開元天宝遺事」には、

七夕の行事が宮内で盛大に行なわれ、民間でもこれに倣ったことが、記載されています。

牽牛織女の恋の伝説と、星に願い事をするということとが結びついたものと思われます。

■中元■

いつの頃からなのかは定かではありませんが、わが国ではお中元というと、

御進物を贈る時節ということになっていて、デパートなどでも大売出しをします。

しかし、この中元は本来、正月、七月、十月の十五日をそれぞれ上元、中元、下元の三元節とする

道教の祭日の一つなのです。昔、陳子椿という聡明でしかも美男の青年がいて、竜王の三人の娘がそろって彼に恋をし、

三人ともその妻となって、それぞれ男の子を産みました。天帝がこれを見て、一月十五日に生まれた子を上元一品の位に

叙して天宮に任じ、人間に幸福を与える職、七月十五日に生まれた子を中元二品にして地宮に任じ、

人間の罪を許す職、十月十五日に生まれた子を下元三品にして水宮に任じ、人間の災厄を除く職を、

おのおのつかさどらせることにしました。三元節は、この三宮の誕生日なのです。

魏晋の頃には、中元節に庭で終日火をたくという風習がありましたが、そののち仏教の降盛とともに、

この日が盂蘭盆(うらぼん)の日なので、中元すなわち盂蘭盆の日ということになってしまい、

行事上の区別はなくなりました。
■重陽■
(ちょうよう)

「桃の節句」「端午の節句」とならんで、昔は日本でも九月九日を「菊の節句」として祝ったものでしたが、

今では全くといっていいほどすたれてしまいました。陰暦の九月九日は、新暦では十月中旬から下旬にあたり、

秋たけなわの菊の季節です。六朝の頃、垣景(かんけい)という人物がこの日茱萸(しゅゆ)・・(はじかみ)を袋につめて

山に登り、菊花の酒を飲んで災禍を逃れたという故事にちなみ、この日厄除けの茱萸を頭にさして、高所にのぼり、

古くから不老長寿の薬酒とされる菊酒を飲むという習慣が生まれたのです。
■中秋■

「燕京歳時記」に清代北京の中秋節の有様を次のように記してあります。

・・・「中秋になると、貴族や富豪の家では、月餅や菓物類を贈答する。満月の夜には、瓜や果物を庭に並べて

月に供え、また枝豆や鶏頭花をもささげる。人々は杯を献じ蓋を洗い、子供らははしゃぎまわり、

まことにいうところの桂節である。」・・・

中秋節が夜を徹して遊ぶ日であったことは宋代の記録にもみられます。

日本のお月見と似たところも多いが、もっと賑やかなレクリエーションの日だったようです。

わが国でも、大いに普及した月餅について、「燕京歳時記」では次のように述べています。

・・・「月餅はいたるところで売っている。大きなものは直径尺余もあり、上面に月宮や蟾(ひきがえる)や、兔(中国の

伝説では、月の中に蟾がいるともいい、兔がいるともいう)の形をかいてある。祭りが終わると食べてしまう家もあるし、

残しておいて大晦日の晩に食べる家もある。これを団円餅(一家団欒して食べる餅)という。」・・・

■送寒衣■
(そうかんい)

新中国になってからは、行事といえば国家的祝祭日の比重がぐっと大きくなりましたが、

それでも市民の日常生活をのぞいてみると、昔ながらの民族的な行事が旧暦に従って行なわれています。

この十月一日は国慶節ですが、旧暦のこの日は送寒衣といって、亡き人を偲ぶ日でもあります。

華北、華中では、少しづつしきたりは違いますが、この日、香燭、供物などを供えて先祖に礼拝し、

華北ではその名の通り、亡き人に寒衣と称する着物を贈るならわしがありました。

しだいに実際の寒衣は用いられなくなりましたが、いぜん中国人には清明節(お彼岸)や中元節と同様、懐かしい行事です。
■七五三■

三歳、五歳、七歳の子供を連れて宮詣でする行事を七五三と呼ぶようになったのは、

明治以降のことだし、元来が関東方面の行事だったのを、全国的に波及させたのは

、商人達の営業政策の成功ともいえなくはありません。ところによって異なりますが、

古くは通例女の子は三歳、または七歳の時、帯の祝といって、着物のつけ紐をとって初めて帯をしめ、

男の子は五歳の時、袴着の祝をおこないました。期日は、もとはこの月の吉日を選ぶというだけでしたが、

いつしか十五日ということになり、もと江戸浅草寺境内で売り出された千歳あめも、

今ではいたるところ、七五三の宮詣の土産に欠かせないものとなっています。
■除夜■

大晦日(おおつごもり)、大年、年の夜、除夕(じょせき)、年越、年取りなどという場合もあります。

昔わが国では、日没を一日の境としていましたから、大晦日が暮れるとともに新年で、したがって

この夜の行事は、正月の行事の一部でした。紙祭りを行なって、年神を迎えると、一家が集まって

年取りの食事をしました。本来は、正式の祝膳を皆で囲んだものですが、近年は手っ取り早く

「年越しそば」で済ませる習慣が多く見られるようになりました。

この夜、寺院では仏教にいう百八の煩悩を除去するために、百八回鐘をつきます。

百七は旧年に、最後の一つは新年につくのが本来のならわしでした。